明日はきっと。

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主人公が決めない、ということ

水曜日にハヤテの記事を書くっていつ以来でしょうか。(挨拶)

ということで、前回と今回でハヤテとアテネの関係性にまつわる部分についてはある程度答えが見えたように思いましたので、少しばかり私見を述べてみたいと思います。
なお、ゴールデンウィークの総括的な記事として、アテネの免責にまつわることなどを後日まとめてみたいなと思っています。それはまたの機会、ということで。

「選ばない」ということ

前回と今回、もっと広く捉えるならば、この1年以上にわたるゴールデンウィーク編で浮き彫りにされたのは、前からある程度見えていましたが、「綾崎ハヤテは選ばない」ということだと思います。

三千院帝は、「三千院ナギか、それとも天王洲アテネか」という選択をハヤテに突きつけました。しかし、綾崎ハヤテはそれを選ばなかった。三千院ナギが、その選択そのものを潰したから。
そして、綾崎ハヤテ天王洲アテネを選ぶこともしなかった。天王洲アテネが、自ら身を引くことでその選択を潰したから。

ある意味美しい構図です。なぜなら、どちらも主人公がするべき選択を選ぶ相手たるヒロインが決めるというかたちを作っているから。あくまでも主体となっているのはヒロインであって、主人公ではない。そこにこだわりを感じますが、それは「いいこと」ではないのではないかと思います。

主人公とは何なのでしょうか。自分が決めるべきことを「決めない」主人公は、物語の主人公たり得るのでしょうか。根本的な疑問を、あたしはどうしても持ってしまいます。

綾崎ハヤテが主人公である意味は何なのか―――ということを。

ギャルゲの文法は王道ではない

前回のアテネの独白を読みながら強く感じたのは、この作品はやっぱり「ギャルゲの枠の中で作られている」ということです。前回と今回で顕著になった傾向ではないかと思います。

ギャルゲでは多くの場合、主人公の男の子を通してヒロインたちが描かれます。ヒロインたちは様々な悩みを抱え、その悩みの解決に主人公が役割を果たす―――結果として主人公とヒロインの中の一人が結ばれます。順番に前後はあるでしょうが、結局ギャルゲで描かれているのは主人公の物語ではなく、ヒロインの物語です。ヒロインの物語を、男の子の目を通して追っていく、そういう文法が(特にヘタレと呼ばれる主人公を擁する作品で)目立って使われているような、そういう印象を持っています。

ハヤテのごとく!」の264話と265話は、まさにそういう視点で描かれた回だと思います。あくまでもハヤテは目であり、そこで描かれているのはハヤテの葛藤ではなくアテネの葛藤です。アテネは、ナギについて語るハヤテを見て、自分が身を引くという決断を下します。ハヤテがどう思っているかではなく、そして自分の希望を通すでもない、そういう選択を彼女はしました。
その決断をハヤテは支持することしかしなかったのです。今回のポイントはまさにここだと思っていて、ハヤテは相手の決断を追認することしかしない。抱えていた謝罪の思いと、思慕とを伝えるけれども、彼女の選択をひっくり返すようなことはハヤテはしないのです。

本当に好きな相手ならば、あるいは、失いたくないと思っていたのならば。アテネを自分の恋人にする、そういう行動だって取ることができる。あたしはそう思います。ハヤテにはあまりにも葛藤がなさすぎる。しかし、相手の選択を、相手の決断を追認することしかしないのは、それが作品の文法に従っているから、そして主人公は「読者の目」だから。

でも、そうだとしても、ただアテネに思いを伝え別れるだけの主人公でいてほしくない。そういう気持ちが、あたしにはあります。

しかし、アテネ退場は必然でもあった

そうは言っても、アテネは退場させなければいけなかったのです。主人公の初恋の相手でしかも相思相愛。ハヤテのご主人様であるところのナギでさえ敵わない、ラブコメ的に強すぎるキャラクター、それがアテネなのです。アテネがいたら物語のバランスは完全に失われてしまうでしょう。ただでさえサブヒロインが強力なこの作品においても、アテネの「強さ」は別格です。
そんな彼女を、ゴールデンウィーク編で少なくとも一時退場させる必要があったと、そう思います。そういう中にあって、今回の展開は一時退場、場合によっては完全に退場させることができる展開であったと思います。そういった点ではよかったのかな、と考えています。