明日はきっと。

本やマンガのレビューなど。

「終わり」は「はじまり」

4月12日発売の週刊少年サンデー第20号で、ハヤテのごとく!がついに最終回を迎えました。
13年・550回超え・単行本50巻超え。その積み重ねを続けてこられた畑先生に、一読者として御礼と敬意を表したいと、素直にそう思っています。
畑先生、本当にお疲れ様でした。

ハヤテのごとく!を中心に書いてきた時間は決して長くない当ブログですが*1、感想を書いていなくてもずっと追いかけてきた作品なので、最終回を読んで時間がたった今になってもなかなか整理がつきません。
でも、最終回。最終回は今なので、今日は最終回を読んだ感想をそのままアップします。
作品全体を通じた振り返り的なものは、日を改めて整理して書きたいと思っています。はい。

主人公の選択が物語を動かす

さて、今から7年も前のことですが、ハヤテの過去が描かれたゴールデンウィーク編の総括として、あたしはこのような記事を書きました。

主人公とは何なのでしょうか。自分が決めるべきことを「決めない」主人公は、物語の主人公たり得るのでしょうか。根本的な疑問を、あたしはどうしても持ってしまいます。

綾崎ハヤテが主人公である意味は何なのか―――ということを。

主人公が決めない、ということ - 明日はきっと。

このとき、あたしはこの「ハヤテのごとく!」という物語を、ギャルゲーの文法を導入した『ヒロインの物語』となっていることに強く反発しています。今読んでも、この時期のハヤテというキャラクターからは意思を感じられません。やっぱり、「ヒロインが決めたことを追認する」という要素が本作の前半から中盤の終わりにかけて特に多くて、それはハヤテが「執事だから」という理由があったとしても、いまいち納得しきれずにいました。
それが、最終章の中で大きな感情の振れを経てたどり着いた最終回で、ついにハヤテが『選択』した―――。とてもうれしかったです。そして、この『選択』の意味は、500を超えるエピソードを積み重ねてきたことの意義と、その積み上げによるバックボーンを持った「物語的に強度の高い」主人公の誕生と終わりであるのでは、と考えます。逆説的にいえば、『ハヤテのごとく!』という作品において、自ら選択することのできる主人公の誕生は、すなわち物語の終わりであるということで、もっと言えば、ハヤテが何かを選択できる強さを持ったら、その時点で物語としてはほぼ終わりだったのであろう、そういう意味できちんと「少年の成長物語である」と言うことができるのだ、とそのように感じました。

綾崎ハヤテは、選んだ。選ぶことができるようになった。それこそが、物語の最終到達点なのだと。そして、彼が主人公なのだと。
そこに残る余韻は、とても気持ちの良いものだったと思います。

余談

と、ここまで書いたところで、長らく見てなかったまんが家BACKSTAGEを見て、Vol.431でそのまま直球で畑先生に語られててうわあ…ってなりました。

物語の終わりは読者にとっての始まりである

この最終回の先が描かれることはおそらくないと思いますが、この先を想像することは自由なわけで、ある意味読者にとってはここからスタートできると言ってもよいのではと考える次第です。
「終わりは始まり」という言葉は、あたしの中では、SIAM SHADEの2002年の解散LIVE「START&STAND UP」のMCで発せられた言葉としてこの20年、ずっと心に残ってきたものです。
今回、ハヤテのごとく!最終回を読んでいるときに、「終わったんだな…」という気持ちと同時にこの言葉が浮かんできて、この先のハヤテとナギたちを思うことは自由で、ある意味始まりなんだな…と。
そのことを胸に、最終回に出てこなかったキャラクター達も含めて、愛すべきハヤテのごとく!の登場人物のこれからをあれこれ想像して楽しんでいきたいと思っています。

そう、俺たちの戦いは今日から始まったんだ…!(オチ)

おわりに

ハヤテのごとく!」という作品に出会わなければ、このブログがこんなに大きくなることはなかったし、ネットを通じたたくさんの友達に大人になってからも恵まれるといううれしいことはなかったでしょう。そういった点でも、畑先生と「ハヤテのごとく!」という作品へは、感謝の言葉しかありません。
本当にありがとうございました。

*1:実質100話頃〜200話あたりまでで、あとは突発的…