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十二国記:「死なないラインハルト」という概念

来月予定のはしきよラジオの課題図書の中に、小野不由美十二国記」が入っているので前書き的に書いてみる。こ今年の8月にmixiで書いたものに加筆訂正したものです。この辺は既出だよねーなどと思いつつもたまにはこういうのもいいですよね。

十二国記田中芳樹銀河英雄伝説」の正伝のネタバレを含みますので、未読の方は特にご注意ください。
ただ、どちらもネタバレしていても十分楽しめる名作です。未読の方はこの機会に是非。



銀河英雄伝説(以下銀英伝)が十二国記のきっかけになったというのは、Wikipediaにも載っている知られた事実です。その銀英伝は日本スペースオペラの名作ですが、それと同時に「架空歴史小説」という側面を持ち、さらにそこで描かれているものは「専制と民主主義」だとあたしは思っています。この作品の思想的なものは概ねヤンが語るものが大きいですが、いずれにせよおのおののよさ・悪さを、作中人物がことあるごとに語っています。
たとえば。5巻ラスト、バーミリオン星域会戦の後初めてラインハルトとヤンが会ったシーンで、ラインハルトの「自分の旗下に入れ」という誘いをヤンが断ったあとでの会話がいい例です。

「それほど民主主義とはよいものかな。銀河連邦の民主共和政は、ルドルフ・フォン・ゴールデンバウムという醜悪な奇形児を生んだではないか」
「……」
「それに、卿の愛してやまぬ――ことと思うが――自由惑星同盟を私の手に売り渡したのは、同盟の国民多数が自らの意志によって選出した元首だ。民主共和政とは、人民が自由意志によって自分たち自身の制度と精神をおとしめる政体のことか」
「失礼ですが、閣下のおっしゃりようは、火事の原因になるという理由で、火そのものを否定なさるもののように思われます」
「そうかもしれぬが、では、専制政治もおなじことではないのか。ときに暴君が出現するからといって、強力な指導性をもつ政治の功を否定することはできまい」
「私は否定できます」
「どのように?」
「人民を害する権利は、人民自身にしかないからです。言いかえますと、ルドルフ・フォン・ゴールデンバウム、またはるかに小者ながらヨブ・トリューニヒトなどを政権につけたのは、確かに人民の責任です。他人を責めようがありません。まさに肝腎なのはその点であって、専制政治の罪とは、人民が政治の害悪を他人のせいにできるという点につきるのです。その罪の大きさにくらべれば、100人の名君の善政の功も小さなものです。まして閣下、あなたのように聡明な君主の出現がまれなものであることを思えば、功罪はあきらかなように思えるのですが……」

途中の地の文は省きました。

もうね、このときの田中芳樹は神がかってると思う。民主主義の最大の欠点となる部分を、民主主義最強の敵たる「天才による開かれた専制」の体現者に指摘させたうえ、表現がシャープすぎる。
最近の田中芳樹という作家には、「なんだかな…」と思わせる部分が多いんですが*1、この頃の田中芳樹は本当にすごかったと思う。まあ、リアルタイムで読んだ訳じゃないですけどね。

英伝はラインハルトとヤンの物語であり、ラインハルトやヤンに従う人々の群像劇であり、国の興亡の物語であります。フェザーンの要素をちょっと省いてみれば、かなり「スター・ウォーズ」に近い構造でもありますが、敵対している国の関係やフェザーンという要素が、「スター・ウォーズ」ではない部分だと思ったり。あと、やっぱり絶対善と絶対悪の戦いなんてあるわけがないんだよねーっていうことでもありますね。
たとえば、作中で明言されていますけれども、激しく対立している銀河帝国――ラインハルトとその一派――と自由惑星同盟は、ゴールデンバウム王朝を敵とする考え方に立ったとき、それは手を結ぶことさえできるものなのです。それに気づいているヤンと、それに気づかず敵の策略にはまる同盟政府といった違いややりとりのおもしろさもあります。それをやったら作品の構造が崩れるのでなかったのでしょうが。
いずれにせよ、作中においては常に専制と民主主義は対立し、専制の体現者であるラインハルトと民主主義の守護者としてのヤンが戦い傷つけ合ってきました。
ですから、ごく普通にあたしたち読者は、銀英伝はおおむね「ラインハルトを選ぶのか?それともヤンを選ぶのか?」という問いかけをされていると感じます。

しかし、そこでまったく別種の問いかけをぶつけてきたのが十二国記の著者・小野不由美でした。すでに絶版となった徳間文庫版「銀河英雄伝説」9巻の解説において、小野不由美さんが突きつけてきたのがこんなものでした。


「ラインハルトなのか、トリューニヒトなのか?」


8巻でヤンはテロに斃れ、この世の人ではないのに、ラインハルトとヤンを比べるのはおかしいのではないか。また、ヤンは常に思想的・軍事的な面でラインハルトに対してきたもので、為政者としてヤンはラインハルトに対立するステージに上がれない。その場合、ラインハルトと対立させるものはトリューニヒトなのではないか―――というのが、小野不由美さんの解説の骨子だったと記憶しています。
そして小野さんは、いろいろな人にその質問をぶつけ、ほとんどの人がトリューニヒトを選ぶ中で、ラインハルトを選ぶ人のエピソードを明かしていました。
その方は「ラインハルトがいい」と明言し、「ラインハルトは死ぬんだよ?それでもいいの」と問われたことに対する答えが「じゃあぼくは死なないラインハルトがいい」というものだったと言うエピソードです。


死なないラインハルト。死なない名君がずっと統治していれば、民衆は幸せである―――なるほどなあと思いました。でも、現実に死なない人はいない。
その思考実験が十二国記という作品だ、というのは、そう読むと納得できます。十二国記の世界では、麒麟が選んだ王は死ぬことはない。王が死ぬ時は天の定めた綱領を犯したとき、仁から外れたとき(=麒麟が病んだ時)など限られている世界。そして、麒麟が選んだ王には必ず名君となる資質がある。それなのに、なぜ選ばれる王は次々と道を踏み外していくのか―――。
王は麒麟に選ばれると神になる。人ではなくなる。それでも、その人は変わらない。塙王は慶が巧よりも豊かになるのが嫌で、胎果でもある陽子が慶の王になるのもまた嫌だからと言って陽子の命を狙ったりします。人は間違う。それは、名君の資質を持った人間であっても変わることはない。それを十二国記は、道を失った王という形で痛切に訴えかけてきます。
国が滅ぶたびに、あるいは王が道を失い国が荒れ始めるたびに、「きちんと名君をしている」あるいは「なろうとしている」主人公たちからもその制度だったり天だったりに対して疑念を口にします。『黄昏の岸 暁の天』後半で陽子が語る、「人は自分を救うしかない、ということなんだ」という一言が象徴的です。所詮天は天。天は人を救わない。人を救うのは人でしかないのだ―――そう、十二国記は伝えてきます。

「死なないラインハルト」がありえたとしても、必ずしも民衆は幸せではない。むしろ不幸になることもあり得る。それが小野不由美という作家の答えであり、そしてあたしたち読者に問いかけているのでしょう。


―――「ラインハルトなのか、トリューニヒトなのか?」

銀河英雄伝説 1 黎明編 (創元SF文庫)

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銀河英雄伝説〈5〉風雲篇 (創元SF文庫)

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月の影 影の海(上) (講談社文庫)

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月の影 影の海(下) (講談社文庫)

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黄昏の岸 暁の天 十二国記 (講談社文庫)

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*1:特に創竜伝。13巻なんかは、おもしろいんだけどそれはやっちゃいけないだろ…と思わせるものがたくさんある